「墨」という言葉を聞くと、みなさまはどのような印象をお持ちになるでしょうか。日本にお住まいの方は、小学生の頃に授業で習った「習字」を思い出すかもしれません。雪舟や長谷川等伯などの水墨画作品群を思い浮かべる美術愛好家の方もいらっしゃるでしょう。
PIGMENTでは顔料だけではなく、様々な墨・硯もお取り扱いしております。今回の記事では岩泉館長から墨にまつわる基礎知識についてお伺いしました。
−「墨」と一言にいっても、PIGMENTには様々な種類の墨が取り扱われていますね。そもそも墨とは何から出来ているのでしょうか
墨の原料は主に油や松を燃やした際に採れる煤と、膠、そして膠の臭いを消すための香料から出来ています。
− 一見全て同じ黒に見えますが、大きく分けてどういった種類の墨があるのでしょうか
まず、油煙墨と松煙墨の2つに分けることができます。先ほどお話ししたように、油の煤から作ったものを油煙墨と呼び、原料が松になると松煙墨と呼ばれます。また、赤みを帯びた墨を茶墨、青みを帯びた墨を青墨と呼びます。基本的に茶墨は油煙墨で、青墨は松煙墨であるケースが多いですが、もちろん例外もあります。
−なるほど……墨の中にも赤系の黒と青系の黒があるのですね。他にはどのような分け方があるのでしょうか
他には、新しい墨と古い墨で分けることができます。実は墨もワインと同じように、寝かせると風合いが変わることがあります。また、中国の墨か、日本の墨か、という生産国の差もありますね。
−日本の小学校では墨汁を使った書道の授業がありますが、そこで使われる墨汁と墨ではどのような違いがあるのでしょうか
膠が入っている墨汁や、煤のみを水で溶いた墨液などもありますが、教材用の墨汁は膠の代用で合成樹脂から作られている事が多いです。墨の煤は、言い換えればカーボンブラックですので、合成樹脂で作った墨汁は墨というより、チューブ絵具の状態に近いと言えます。
※当ラボで墨汁のお取り扱いはございません
−膠で作られた墨と、合成樹脂で作られた墨汁、それぞれのメリットを教えてください
合成樹脂は人工物ですので、樹脂製の墨汁は状態が変化しないというメリットがあります。それに対して固形墨は天然の膠が糊材ですので、磨った状態のまま保管すると水の影響で劣化するため、磨りたての状態を保つことができません。ただ、この膠が「この変化する」という性質に固形墨だけが持つ重要な利点が隠されています。
−そのメリットとはなんでしょうか
先ほどお話ししたように、固形墨を水で磨った状態で保管することは出来ませんが、完全に水分が抜けた固形の墨は腐りません。しかし、中に含まれている膠の成分が経年劣化し、煤の状態に変化が生まれ、色に味わいが出てきます。
−それは何故変化するのでしょうか
墨の原料となる煤の粒子は、元々ぶどうの房のように寄り集まって形成されております。それを糊材と混ぜ、粒子を一粒一粒に分散させ、固形墨や、墨汁の状態にします。また、油由来の煤と松由来の煤では、粒子の大きさが異なります。一般的に前者は細かい粒子で、後者は大きい粒子により形成されています。もちろん例外もあります。
その粒子の差から、どの光の波長を反射するかで、墨の色味がきまります。ただ、煤に混ざっている膠の固着力が弱まると、煤の粒子が房の形に戻ろうとします。それにより、粒子の大きさに変化が発生し、それに応じて色も変化いたします。
−なるほど、それが新しい墨と古い墨の違いであり、固形と墨と墨汁の違いなのですね
はい。中には膠を糊材としている墨汁も商品としてはございますが、これらの商品は使用期限が設定されています。つまり膠が経年変化を起こす前に劣化してしまうのです。また、固形墨は磨る硯によっても異なる発色を魅せてくれます。つまり、固形墨は墨本来の多様な発色を生む素材なのです。硯と墨の関係性については、別の機会にお話しできたらと思っております。
−固形墨の膠はどのような種類のものが使われているのでしょうか
以前、メディウムの回でもお話ししたように、固形墨でも様々な種類の膠が使われています。「墨は固形で当たり前」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが……少し見方を変えて、これを絵具の塊だと考えてみてください。この厚さの絵具の塊が割れてないというのは凄いと思いませんか?
−確かに、アクリル絵具や油絵の具を1cm以上の厚さで塗ろうとすると、割れたり、経年劣化で崩れる心配がありますね
そうなんです。固形墨に使用する膠にはそれ以外にも様々なことが求められます。
まず1つ目が今ご説明したように、この厚さでも割れないよう固めための膠、そして水道水の温度で磨っても下りる(溶ける)ようにするための膠、更に実際に描く時の筆運びを良くする膠や、墨色の表情を左右する膠……等々、さまざまな事が固形墨の膠に求められます。
もちろん、これらの条件を1種類の膠で満たすことは出来ません。そのため、牛や鹿、太鼓の皮など様々な種類の膠がブレンドされ、固形墨が出来上がっているのです。
−なるほど。凄い技術がこの墨の中に込められているのですね
はい。一見シンプルに見える固形墨ですが、この中には様々な技術が使われています。是非、その墨の奥深い世界をみなさまも体験して頂けたらと思います。また、当ラボではこうした墨についての見地を、材料学的な見地から紐解く「日本絵画秘伝講座〜墨〜」という講座をご用意しております。墨にご興味をお持ちの方は是非ご受講ください。