墨は、黒の中にある豊潤なトーンに潜む絶妙な色合いや、水との親和性を生かした表現技法に注目される色材ですが、「硯で墨色も変わる」と言われるほど硯と深い縁があります。
硯は、使う道具でありながら見て楽しむ美術工芸品でもあります。実用性はさることながら芸術性も名高い二大名硯、端渓硯(たんけいけん)や歙州硯(きゅうじゅうけん)のようなポピュラーなものでも、材質と意匠、大きさなど選択肢が千差万別で、選び方が難しい道具のひとつです。
今回は、制作で使用する硯の選び方と基本情報、端渓と歙州の要点をご案内いたします。
◾️材料
【石硯/石】
現代では主流の素材で、採掘した岩石で作られます。
天然石の硯には、鋒鋩(ほうぼう)と呼ばれる微細なヤスリのような凹凸が表面にあり、その作用で墨をおろします。石により鋒鋩の質感や密度も異なり、磨墨(するすみ)や、水墨画などで濃淡の色味や立体感を表す溌墨(はつぼく)にも影響します。
安定感はありますが、重いので気をつけてお取り扱いください。
日本では、中国製の唐硯と、日本製の和硯が主に流通しています。
中でも最大産地である中国の硯石は、緻密で硬い石質が特徴です。採掘場所により材質や石紋の個性が異なり、同じ種類でも坑窟ごとで名称が付けられる石もあります。端渓と歙州も石硯に分類されます。
【陶硯・磁硯/陶器・磁器】
陶磁器が持つ素材の特性と、釉薬による彩色に加えてデザインにバリエーションがあります。
石硯よりも軟質で、柔らかい固形墨や彩墨などに適しています。
◾️名称・呼称
主な部位の名称について、一例を記載しております。 ※国や言語、文化によって部位の呼称が異なります。
硯の数え方:面(めん)、枚、石、個
各部位の名称
硯の表:硯面(けんめん)、硯表
硯の裏:硯陰(けんいん)、硯背
硯の側面:硯側、硯旁
硯の縁:縁、硯唇(けんしん)、硯純(けんどん)
墨を磨る平な所:丘、陸、墨堂
磨墨液を溜める所:海、墨池、池、硯沼
丘から海に繋がる傾斜:落潮(らくちょう)、舌
◾️形状
丘、海、硯唇のある長方形がメジャーなスタイルですが、他にも円形、物や動物を象ったデザイン、自然石のフォルムを生かした有機形があります。
その中にも、丘がなく海だけの円形型、丘しかない板状の板硯(ばんけん)、実用向きのもの、装飾性や骨董要素の強い観賞用、複数の要素が備わっているものなど、多種多様です。
・歙州 水坑/金星金花紋板硯
◾️サイズ
一般的には、吋(インチ/1吋=約2.5cm)で概ね表記されます。
和硯は独自の伝統的な寸法である、二五度、三八、四二寸のような符丁で表すこともあります。
用途にもよりますが、基本的には少量の墨や小筆での使用は小さい硯、大量の墨と大筆は大きい硯とお考えください。
大きい硯で少量の墨を磨ると水分の表面積が大きいので蒸発しやすく、たくさん磨る時には、小さな硯では何度も絵皿に移し替えたり、度々磨ると濃さを均一にするのが難しいなどといったデメリットがあります。
墨量と筆のサイズに合った硯の大きさは、下記をご参考になさってください。
吋は、概ね硯の長辺部分をもとに記載しておりますが、詳細は商品ページをご覧ください。
3~5吋...少量・小筆
6~7吋...中筆・中筆
8吋以上...大量・大筆
◾️選び方
【黒い固形墨でのご使用】
煤が基材である黒い固形墨は、石硯をお使いください。
初めて硯をご購入される方は、丘、海があるタイプで、サイズと材質を基準に選ばれると良いでしょう。
ご使用になる墨よりも硬い材質の硯で磨ることが、良好な状態で使い続けるポイントです。
例えて言うならば、硬い石で軟質の板を引っ掻くと傷が付くように、硬い墨を柔肌の硯などでおろすと、鋒鋩が傷ついてしまいます。松煙墨のような硬い墨には硬質な石質を選ぶなど、墨と併せてご考慮ください。
特に、製墨から10年以上経った古い固形墨で磨る際は、和硯よりも硬さのある唐硯を推奨しております。
固形墨を作る時、書く時に必要な量よりも少し多めの膠が使われています。そのため、新しい墨は粘度が強く感じることもあります。
年月が経つと膠の粘度が低下し、製墨から3〜5年ほどで膠の粘度が大きく変化した後、数年で描くのに適したバランスの良い膠の状態になります。
さらに時が進むと、膠と水分が減少し墨が枯れた状態となり、膠の粘度が下がります。その頃には運筆は軽やか、墨色にも透明感が出るなどの変化が生じます。一方で、通常の墨より硬くなります。
(※墨は環境に依り大きく変わります。上述の変化は、適切に保管された状態での目安としてお考えください。)
硯は長く使うことができる道具ですので、それぞれの特性をご参照の上、お選びください。
【彩墨でのご使用】
白く発色もわかりやすい白陶硯や画陶硯は柔らかく、彩墨に最適です。
彩墨よりも硬い、黒い墨をするのには適しておりませんので、ご注意ください。
小ぶりで取り回しも良いので、多色使いをされる際は色相の数だけあると制作に便利です。
・白陶硯
・画陶硯
硯選びでご不明な点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
続いて、唐硯で最も有名な端渓硯と歙州硯についてもご説明いたします。
◾️端渓(たんけい)
岩質:輝緑凝灰岩
採掘:中国/広東省肇慶市
種類:老坑、麻子坑、坑仔岩、宋坑など
モース硬度:3.5
特徴:坑窟により石質や特性が異なる
墨との相性:油煙墨または松煙墨
唐硯の代表格とも言える存在です。
端渓とは、西江の古名が由来になっています。
柔らかさゆえ彫りやすく、装飾的なデザインが多くあります。また種類が豊富で、採掘される坑窟により石質や名称が異なります。
モース硬度とは、鉱物などの硬さの尺度のひとつで、10段階の基準鉱物を用いて相対的な硬さを決めます。1〜10で分類され、数値が大きいと硬い物質であることを示します。
端渓 老坑
・老坑3/3.6吋/140322
【老坑(ろうこう)】
端渓の最上位種で、「端渓三大名坑」の一つです。
清流が流れ込む坑窟であることから、肌合いはきめ細かく墨が吸い付くように感じられ、非常に滑らかに墨をおろせます。
保水性に優れ、磨った墨が乾きにくいのが特徴で、油煙墨との相性が良好です。
硯面に現れる石紋は豊かで美しく、紋ひとつひとつに名称が付けられています。
しかしながら、現在は採掘ができなくなっており、大変貴重です。
【坑仔岩(こうしがん)】
端渓三大名坑の一つです。
老坑ほど吸い付く感じはありませんが、表面が非常に緻密で滑らかさが特徴です。
石によっては老坑以上とされるものもあり、老坑に次ぐ優質とも言われます。
こちらも現在は採掘が出来ません。
【宋坑(そうこう)】
端渓のなかでも比較的硬めで、粗目の肌合いです。そのため、油煙墨だけでなく松煙墨も使えるので、併用したい方におすすめです。
【麻子坑(ましこう)】
端渓三大名坑の一つで、一般的に端渓の代名詞とも言われ、当ラボにも多数ご用意しております。
老坑や坑仔岩には及びませんが、特徴は滑らかに墨がおりることです。
現在は鉱脈が枯れて採掘できないため、こちらも出ている限りの貴重な硯です。
【新麻子坑】
麻子坑と坑窟は異なりますが、麻子坑に色味が似ていることから「新麻子坑」と言われています。
埋蔵量と採掘量が多いことから、手頃な価格帯のものが多く、初めて硯を使う方にも扱いやすい一品です。
麻子坑 彫花硯 亀 有眼
◾️歙州(きゅうじゅう/きゅうしゅう)
岩質:粘板岩
採掘:中国/安徽省歙県龍尾山(現在:江西省婺源県歙渓)
種類:魚子紋、眉子紋、金星・金暈紋星など
モース硬度:4
特徴:硬め、肌合いは緻密だが荒い
相性の良い墨:松煙墨
歙州とは、かつて中国にあった州の名称で、端渓と並び代表的な石硯です。
端渓に比べて硬く、肌合いは緻密ですが鮫肌のように荒くザラザラしているので、松煙墨などの硬い墨をおろす際に適しています。
また、歙州硯は、石肌の紋様で種類を分けています。
【金星・金暈(きんうん)紋】
まるで金泥の雲がたなびくような紋で、歙州硯の特徴的な紋様とも言えるかもしれません。
美しく華やかな石紋が魅力的です。
【魚子(ぎょし)紋】
まるで魚の子が泳いでいる様に見え、落ち着いた中に雅を感じます。
【眉子(びし)紋】
まるで人の眉毛の様に見えることから、名付けられました。
歙州 水坑/眉子紋硯
◾️固形墨の磨り方
初めておろす時や、しばらく使っていなかった硯は、水に浸してからご使用ください。
手順
① 少量の水を丘に差す
少量の水を丘に差してください。
水滴(水差し)や水匙を使うと、水量を調節しやすくなります。
水温や気温が低いときは、硯を保温シートなどで温めるなど、ご調整ください。磨墨時間の短縮と、膠の液状化による分散を促し、きれいな墨色に繋がります。
・水滴 陶器
・水滴 古銅水注 玄武
・水匙
②墨を磨る
力を入れすぎないように、円を描くか、または前後に墨を動かし、墨が溶け出した水にとろみを感じるまで磨ります。
③少量の水を足す
少量の水を足します。
濃度のある磨墨液を作るには、少量ずつ水を足していくと作りやすくなります。
適量まで①〜③を繰り返し行います。
直接硯の上の墨に筆を浸けて使うこともできますが、墨の使用量が多い場合や硯よりも大きな筆を使う時、また濃淡をつける時や淡墨で描きたい方は、別の器や絵皿に墨を移し替えてください。
こちらの動画も併せてご参照ください。
◾️使用後
使用後は、墨のカスが残らないように水またはお湯ですぐに洗ってください。
きれいな硯を使うと墨のおりが良く、発色の良い磨墨液になります。
乾いたら、硯箱などに入れて保管します。
こちらの記事でも、中国や日本の硯についてご説明しております。よろしければ併せてご参照ください。
【ARTICLES】PIGMENT岩泉館長が語る硯の基礎知識
用と美の世界をあわせ持つ硯は、墨の魅力を探るアーティストの感性を表現する道具としてだけでなく、硯面に浮かぶ石紋の美はまだ見ぬインスピレーションに繋がるかもしれません。
参考資料
株式会社 墨運堂(2023年2月10日閲覧)
https://boku-undo.co.jp/index.html
墨・和文具のお話し (その他)
https://boku-undo.co.jp/story/st5.html
墨のQ&A
https://boku-undo.co.jp/faq/
有限会社 西本皆文堂(2023年2月10日閲覧)
https://kaibundo.net/
硯について
https://kaibundo.net/suzuri