絵画の起源に関する問いは非常に不確かで、エジプトにおいて6000年前に花開いたという言説もあれば、それが欧州へ伝わる前にギリシャ人が発見したという説もあります。
しかし、全ての絵画において一致しているのは、人間の影の輪郭をなぞることに始まることです。そして時代を経るごとに輪郭だけではなく陰影が描かれていき、今日における絵画が体系化されました。
《Stela of Senu》ca.1390–1352 B.C,The Metropolitan Museum of Art
アルベルティが『絵画論』において「光と色とをもたないかぎり、何ものも見ることは出来ない。」と語っているように、影を捉えることは形態を描くのと同様に重要な意味を持っています。
そうした影を描くための黒系顔料は古代から使用されていました。
古代ローマの博物学者、プリニウスの伝えるところによれば、アテネの有名な画家ミコンとポリュグノトスのふたりは葡萄の搾かすから黒色を得て、アペレスは象牙を焼いて黒を精製したとされています。
ただ、今日において葡萄の搾かすを原料としたワインブラックを使用する場面は少なくなりました。併せて、ワシントン条約に伴い原材料として象牙を輸入することが難しくなっているため、本来は象牙(アイボリー)を焼成して作られた黒を意味したアイボリーブラックはその名前のみを残し、他の動物を炭素化させたものが代用品として使用されています。
現在、絵画で使用される黒系顔料は主に以下の3つです。
前述の通り、アイボリーブラックは炭化させた動物の骨を顔料に使用しております。やや赤みを帯びており、ホワイトに混ぜると、赤みのあるグレーがつくれます。
ランプブラックは油が不完全燃焼したときにできる煤が顔料です。青みのある黒です。つやはありません。ホワイトを混ぜると落ち着いたグレーになります。
ピーチブラックは昔は桃の種を焼いて顔料にしたことから、こう呼ばれています。色は暖色と寒色の中間調。漆黒度が高く、見た目がいちばん黒いです。ただ、他の黒と比べて黒が効きにくいため、混色をする際にはこちらを利用すると良いでしょう。
しかしこの黒系顔料は顔料の特製上、非常に乾燥が遅いことも特徴のひとつ。
もちろん近代以前はアルキド樹脂のような乾燥促進剤はありませんので、当時の画家たちは緑青などの乾燥促進材を添加しておりました。
また、ルーベンスはグレーのインプリミトゥーラを行うために木炭も使用したそうです。
実際にルーベンスの作品を観てみましょう。
こちらはオウィディウスの『変身物語』内に書かれている、ヴィーナスとアドーニスが主題。
彼の作品はまずキャンバスに滑らかな白亜地を塗るところから始まります。そして、その上から不規則なタッチで褐色で彩色(インプリミトゥーラ)したのち、ハイライトには油絵具特有のこってりとした絵具をのせ、暗部には下塗りが透けて見えるくらい薄く色を塗布していました。
こうした描き方が、作品をダイナミックに、そして華麗に魅せているのです。
《Venus and Adonis》Peter Paul Rubens,probably mid-1630s,The Metropolitan Museum of Art
もちろん、影を描くにあたり黒系顔料だけを使用しなくてはいけないというルールはありません。
むしろ黒だけを使用すると少々短調になってしまいがちであり、味わいのある絵画空間をつくるためには彩度と明度が低い色を用いて影を表現する場合もあります。「夜の画家」とも呼ばれるラ・トゥールはバーントアンバーやローアンバーを用いて、ドラマティックな光と影を生み出しました。
ここで描かれているのはマグダラのマリア。キリストが十字架にかかるとき、多くの男の弟子たちはイエスのもとを逃げてしまったが、マグダラのマリヤはほかの何人かの女たちと一緒に最後まで十字架の所にいて、イエスを見守っていたといいます。
20世紀フランスの文学者アンドレ・マルローは美術論集『沈黙の声』にて、ラ・トゥールの描く蝋燭は弱々しく十分に人物を描いていない、それは画家が夜の神秘を描き出そうとしているからだとも述べています。
《The Penitent Magdalen》Georges de La Tour,ca.1640,The Metropolitan Museum of Art
黒系顔料という強い色を逆手にとり、巧みな絵画空間を作り出している作家としてジョアン・ミロが挙げられるでしょう。
ミロはさまざまな色彩に対して、重要な意味を見出していました。天空を表す「青」は彼にとって基本の色であり、同色を主題に作品を数点制作し、更に多くの作品で背景色として使用されています。また茶色は故郷のカタルーニャの色であり、赤は太陽と女性の色、黒は生命の根源と闇、黄色は無限の象徴としていました。
1928年に描かれたこの作品は、17世紀のオランダ風俗画にインスピレーションを得て描かれたシリーズのひとつです。
真ん中に描かれている人物像は、彼の速記的な表現によってとてもユニークなコンポジションを生み出しています。
《Dutch Interior (III)》Joan Miró,1928,The Metropolitan Museum of Art
このように、時代やアーティストよっても影や黒の扱い方は千差万別。
また、赤と緑など補色同士を混色させることでグレーが作れたりなど、黒系のピグメントを使用しなくても多様な影のトーンを作り出すことが可能です。
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ついつい、いつも同じ黒系顔料を使っているという方もいらっしゃるのではないでしょうか。ぜひ当ラボで、新しい色を探してみてください。
参考資料
・アルベルティ L.B『絵画論』三輪福松 訳(中央公論美術出版.2011年)
・ストイキツァ I『影の歴史』岡田温司・西田兼 訳.(平凡社.2008年)
・ニコラウス K『絵画学入門』黒江光彦 監修. 黒江信子・大原秀之 訳(美術出版社.1985)
・城一夫 橋本実千代『色で読み解く名画の歴史』(パイ インターナショナル.2013)
・ホルベイン画材株式会社「色材の解剖学⑭ 油絵具のブラック」(2020年11月15日閲覧)
https://www.holbein.co.jp/blog/art/a189
・いのちのことば社「《3分でわかる》マグダラのマリヤとは?」(2020年11月15日閲覧)
https://www.wordoflife.jp/bible-52/