新しいスタイルの固形墨〜黒鉛墨と無膠墨〜

新しいスタイルの固形墨〜黒鉛墨と無膠墨〜

PIGMENT TOKYOでは2023年5月30日より、株式会社呉竹の黒鉛墨(こくえんぼく)と無膠墨(むこうぼく)という2種類の固形墨をPIGMENT TOKYO限定で先行販売いたします。


黒鉛墨 ¥ 6,000

 

無膠墨 ¥ 6,000

 


通常、墨は油や木を燃やした時に出る煤と膠を練り合わせることで墨になりますが、2つの新商品はこれまでの墨とは異なった特徴を有しています。
今回、株式会社呉竹で製品開発を担当された野田盛弘氏に、商品の特徴や開発秘話について伺いました。


ー黒鉛墨を開発した経緯を教えてください。
野田盛弘氏(以下野田/敬称略):墨の歴史は紀元前に遡りますが、最初の墨はどの様な物だったのか、ずっと興味がありました。製墨メーカーに勤めて、さまざまな商品開発を行ってきましたが、常にその疑問が根底にありました。



株式会社呉竹 生産部の野田盛弘氏


ー確かに今と全く同じとは考えにくいですね。
野田:「墨」という漢字は会意兼形声文字(かいいけんけいせいもじ)で、会意文字と形声文字のふたつの特徴を併せ持っています。つまりこの漢字ひとつで意と音のふたつが込められています。
詳しく説明しますと、上部は煙を出して煤がつまり、下で炎が上がることを表します。下部は土地の神を祭るために柱状に固めた土の象形と言われています。
私はこの「土」の部分にヒントを得て、土製の顔料を使って墨を作れないかと考えた時に、黒鉛が浮かびました。
黒鉛は鉛筆やコンテではおなじみの素材ですが、もしかすると墨は煤以外に黒鉛も使われていた可能性があるのでは、と思ったのです。


ー通常の固形墨で使用される煤とはどのような違いがあるのでしょうか。
野田:製墨で使用する煤と黒鉛は、同じ化学記号Cで表される炭素ですが、その結晶構造が異なります。そのため、グラファイトは煤と比べるとグレーの色味を含んだ、少し鈍い黒色です。


ープロトタイプを作ってみて、いかがでしたか。
野田:先ほどお話ししたように、この墨は「古代の墨はどんなものだったのか」がキーワードでした。ただ実際に作ってみると、とても書きにくく、筆先をうまくコントロールできませんでした。「やはり墨は最初から煤を使っていたのか」と思いながら、他の方に評価を依頼する事もなく、仕事部屋の机の中にしまい込んでいました。
たしか15〜6年前のことだったと記憶しています。



粉末状の黒鉛


ーそれが、なぜこのタイミングで商品化されたのですか。
野田:私は定期的に京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)にお邪魔しているのですが、教授の青木芳昭先生から「粉状のグラファイトは使っていると飛散するので、何か良い方法は無いか」という相談を受けまして。その時、以前試作した黒鉛墨を思い出しました。その後、試作品を幾つか提示して改良を加えたのが、今回の黒鉛墨です。


ーたしかに、粉状の黒鉛は扱いづらいです。
野田:ある意味で、墨は顔料分散技術の最初の応用技術です。
弊社は120年の歴史ある墨造りの技術と、100色の顔彩を展開できる顔料の知識を有しています。私たちは墨を文房具ではなく芸術の素材として捉えています。それらを実際に使っていただいている教授や学生の皆様のご要望をインプットし、その内容を実現する経験や技術を持ち合わせていたからこそ、この黒鉛墨は商品化ができたのではないかと思っています。



黒鉛墨の色見本(黒鉛墨に同梱されています。)



ー無膠墨も、同じようにお客様のご要望から誕生したのでしょうか。
野田:はい。最近ですと、お寺に勤めているお坊さんから、「殺生をしない写経用の墨は無いか」とご要望がありました。
ただ、皆様ご存知のように、基本的に固形墨の原料は、煤と膠と膠を溶かす水と香料だけです。もちろん香料は入っていなくとも墨として成立するので、墨に必須の原料は煤と膠だけです。
今から1500年以上前の三国時代(AC184〜AC280)、韋誕(いたん)と言う人物が『墨経』(ぼくけい)にて、墨の原料を煤と膠であると記しています。つまり、全てとは言いきれませんが煤と膠の組み合わせは、1000年以上前から現代に至るまで変わっていないのです。
私が技術開発部に配属されてから40年以上が経ちますが、その間に社内外の方から様々な質問や問合せを受けました。中には「膠を使っていない墨は無いですか」 というような、当時からすればとんでもない質問もありました。


ー確かにそれは困ります。
野田:ですので、私は諸先輩方と同じく「色々検討していますが、膠以外のメディウムで墨を作る事は出来ません。」と答えていました。しかし、そのような質問がそれからも時々ありました。当然ですが私や先輩も「膠を使わない墨」の開発に何度かチャレンジしていましたが、その度に敗退していました。


ー製品化するにあたってどのようなハードルがありましたか。
野田:膠の代替を検討する上でキーになる要素を整理すると、合計で10個ほどクリアしなくてはいけません。
まずは墨液の煤の粒子を安定的に包み込むこと、次に水に溶けることが重要です。そうでなければ固形墨として使うことができず、製造することもできません。
また、乾燥による固化や、最低でも数十年程度保つ安定性、温めると軟らかくなり冷やすと固まること、硯を使って室温で再溶解できることも大切です。固形墨は木型に入れて乾燥させるため、温度可逆性がないと固めることができないのです。
他にも、描画後に額装や軸装が可能であること、墨色は従来と同等程度に黒く、筆と硯を傷めないこと、そして人体や・環境に対する安全性にも注力しました。


ーある意味、それくらい膠は優れている素材であると。
野田:膠が使われている墨は、上記のような性質が備わっています。膠は固形墨以外に絵画の世界でも多用されている、非常に稀有な素材です。
実は100年以上前、他社で「草膠」と言われるものを使用した墨を作ったことがあるようです。ただこれは一般に流通するものではなく、いわゆる珍品のような扱いであったと思われます。
文献等を読むと、この「草膠」に使われた樹脂は想像がつきますし、何十年も前に似たような組成の樹脂で試作した事もありましたが、先ほど挙げた幾つかの項目がクリアできませんでした。



PIGMENT TOKYOで取扱いの膠の一例



ー商品化につながるような契機があったのでしょうか。
野田:入社後40年以上が経ち、忙しい時期から少しはゆっくりと物を考える時間が取れる様になりました。そして営業を通して各方面の方々とお話し、一定のユーザー層が無膠墨を求めていることも判りました。
あらためて、過去に行ってきた数々の試作と今迄の技術的経験や知識を整理した結果、出来たのが今回の無膠墨です。
1000年以上の長きにわたって膠で作られてきた「墨」を否定するのではなく、選択肢のひとつとしてご提示できたらいいなと思っています。

 

 

ーちなみに、どんな素材を使っているのでしょうか。

野田:それは企業秘密でお願いします。
程度の差はありますが、先ほどの10項目を全てクリアしています、とだけお答えさせて下さい。


無膠墨の色見本(商品に同梱されています。)

 


現代においても膠は代替しがたい、素晴らしい機能を有した素材です。しかし素材として動物の皮や骨を用いているため、こうした原料を避けたいという方もいらっしゃるでしょう。
それを1902年から続く技術と知識で解決するというのは、驚きです。

「墨はこういうものである」という固定概念を外しつつも、新たな伝統の形を探ろうとする2つの固形墨は、 PIGMENT TOKYOが掲げる「今を作る伝統画材ラボ」というキーワードにぴったりな商品ではないかと感じました。
こちらの商品は店頭でお試し描きも可能です。黒鉛墨と無膠墨をお求めの際には、ぜひ当ラボをご利用ください。

Profile

大矢 享

PIGMENT TOKYO 画材エキスパート

大矢 享

1989年東京生まれ。 日本大学大学院芸術学研究科造形芸術専攻博士前期課程修了。 PIGMENTにて画材エキスパートとして携わりながら、平面作品を中心にアーティスト活動中。

1989年東京生まれ。 日本大学大学院芸術学研究科造形芸術専攻博士前期課程修了。 PIGMENTにて画材エキスパートとして携わりながら、平面作品を中心にアーティスト活動中。