PIGMENT TOKYOは様々な活動を通して、岩絵具や膠などの伝統的な技法や材料に関する専門的な知識や情報を提供し、アーティストをサポートしています。
2024年9月にブータン王国の政府機関 Department of Culture and Dzongkha Development(文化省・Dzongkha*開発省/以下DCDD)の招聘を受け、Workshop on Mineral Pigment Paint Preparation and Application Techniques”(岩絵具の調合および応用技術に関するワークショップ)にて講演いたしました。
本ワークショッププログラムのきっかけは、DCDDが取り組んでいる文化遺産修復事業の一環であるTango Monastery(タンゴ僧院) 復元プロジェクトにあります。その背景には現在の画材事情が大きく関わっています。
修復師でありブータニズムを重んじる復元プロジェクトのリーダー、DCDDのTashi Lhendup(タシ・レンドゥプ)氏の牽引により、この度のワークショップが実施されました。
ワークショップでは、ブータンとネパールの岩絵具の技法や材料について知見を得ることができ、PIGMENT TOKYOにおいても非常に貴重な経験となりました。
Part.1では、今回のワークショッププログラムが開催されるに至った経緯と、その起点となるブータンの芸術や文化についてご紹介しました。本記事では各ワークショップの内容について詳しくお伝えいたします。
*Dzongkha(ゾンカ)…ブータン公用語。ブータンの文化やアイデンティティの重要な要素で、その象徴的な意味合いもある。チベット系の言語に属し、ブータンの仏教文化とも密接に関係し、独自の文字体系を持つ。
ワークショップの内容
ブータン
タイトル:Tango utsiの壁画に使われている天然顔料 と色彩学
講師:
DCDD Division For Cultural Properties Conservation Assistant(環境保護助手)/保存修復者 Tashi Lhendup(タシ・レンドゥプ)
ブータン研究センターおよびGNHリサーチ所長 /アーティスト Dasho Karma Ura(ダショ・カルマ・ウラ)
左:Tashi Lhendup氏 /右:Dasho Karma Ura氏
画像提供:DCDD
復元プロジェクトリーダーのTashi Lhendup氏よりTango utsiの修復について、Dasho Karma Ura氏は色彩学や壁画に使われている顔料についての講義が行われました。
古代に使われていた天然顔料や、顔料と色の関係についてなど、Tango Utsi(ウツェ/仏塔)にとどまらず貴重なスライド資料と併せてレクチャーが行われました。
ブータンの絵画の表現法にThangka(タンカ)があります。Tango Utsiには17世紀に描かれたブータンの伝統的な絵画様式である Menlug(メンルク)様式の Thangkaの古代壁画が多数保存されています。
約300年前のオリジナルの壁画は、漆喰が塗られた壁面に描いたフレスコ画で、天然の岩絵具や茜(マダー)から作られた絵具や、天然由来の漆を使用し精緻な金箔加工により描かれていました。
鮮やかな色合いと緻密なデザインが特徴で、その細部にわたる表現力から、ブータンの描画技術や美術への造詣の深さがうかがえます。
ブータン国内の美術作品の多くは仏教に関連したものが中心で、仏像や仏画が主なテーマです。
現代美術においても抽象的な表現が見られるものの、モチーフとしては依然として仏像が多く、芸術と信仰は密接に結びついています。神々を祀るために描かれ、表現されることが多いようです。
伝統美術・工芸の13の分野を指す Zorig Chusum(ゾリク・チュスム)には、Jinzo(ジンゾ) と呼ばれるモルタルや漆喰などを使用して建物を作る技術もあり、Tango Utsi は数々のZorigが集積されています。
Tango Utsiの修復については、こちらの動画にて詳しく説明されいますので、ご覧ください。
*ナレーション..Dzongkha語/字幕...英語
左:キャンバス裏面/右:キャンバスに描かれたThangka
僧院のThangka は壁に直接描かれていますが、一般的なThangkaの基底材は木綿のキャンバスに描かれで、巻物のように持ち運ぶことができます。出来上がった作品は布で装飾して仕立て、掛け軸のように壁から掛けます。
画像からもわかるように、キャンバスや張り込み方も現在一般的に流通している方法とは異なり、木綿のキャンバスの縁を折り返してかがり縫いを行い、紐で編み込みながら枠に張ります。
ブータンの膠(原材料不明)と筆
上の画像は、ペーパーマッシュ(張子)のお面彫刻に使われているブータンの膠です。
膠の製造方法や原料は風土や文化により差はありますが、世界各地で古くから利用されてきました。
動物のコラーゲンを活用した糊剤が、さまざまな地域で使われてきたことがわかります。
また、ブータン国内にいわゆる画材店が無いため、顔料やほとんどの画材は近隣のインドやネパールの画材店から調達しています。筆の種類も限られており、アーティスト自ら狸や猫の毛を使って理想の筆を作り出すことが一般的です。
ネパール
タイトル:ネパールの岩絵具 基礎知識と使用法
講師:Pauva専門家/アーティスト Sudarshan Suwal(スダルシャン・スワル)
Sudarshan Suwal 氏(画面右)
Pauva(ポーバ)専門家のSudarshan Suwal氏による、ネパールの岩絵具に関する基本情報と使用についてのレクチャーとデモンストレーションが行われました。
Suwal 氏はネワール族のアーティストで、Pauvaのスペシャリストとして知られています。
彼は仏教とヒンズー教の絵画に焦点を当て、伝統的な技法を駆使した作品で評価されており、ネワール文化の深い理解と敬意が反映されています。
また、Pauva技術の普及だけでなく、その文化的意義の重要性を広める活動にも取り組んでおり、伝統芸術の保存と発展に貢献しています。
顔料を磨るデモンストレーション
画像提供:DCDD
Pauvaとは、ネパールのカトマンドゥ盆地に住むネワール族に受け継がれてきた絵画技法で、チベットのThangkaのルーツと言われているため、Pauvaを「Thangka」と称することもあります。これにより、ブータンのアーティストや修復師とも緊密な関係があることがわかります。
<デモンストレーション> 金属のマーラーで天然のアズライト(藍銅鉱)を砕いている様子
PIGMENT TOKYOでは、顔料を練る(絵具を作る)道具として大理石板とガラス製のマーラー(練り棒)を取り扱っていますが、他の素材でできた道具でも絵具は作ることができます。
酸化鉄系の顔料
画像提供:DCDD
ネパールのPauva絵画でも天然の岩絵具が使用されており、ワークショップでは粒子加工をしていない、まさに石そのものを使ってデモンストレーションが行われました。
画像提供:DCDD
<デモンストレーション>濡らした石板の上で顔料石を磨る様子
17世紀まで、Thangka絵画は鉱物や植物、花などから抽出した色で描かれていました。天然岩絵具や自然由来の原料から絵具を作るには、非常に多くの時間と労力を要します。
当時の画家たちは、絵を描く前に瞑想や祈りを行い、集中力を高めていたといわれています。このように絵具を作る過程も、アーティストたちにとっては、自分自身や作品と対時する貴重な時間だったのではないでしょうか。
また、ネパールでは天然岩絵具が採掘されていたため、身近な画材として親しまれていたのかもしれません。
この後、粉状に砕かれた顔料を乳鉢の中で膠と練り合わせて、ネパール式の絵具を作りました。
日本/PIGMENT TOKYO
タイトル:日本の岩絵具と日本の伝統的な絵画技法について
講師:PIGMENT TOKYO 山里奈津実(講師)/ 岡野敦美(英語通訳)
PIGMENT TOKYOは、顔料、膠、墨、絵絹についてのレクチャーとデモンストレーションを担当しました。講師は、日本の伝統絵画や技法に関するワークショップを行っている山里と、英語通訳にはプライベートワークショップの英語講座や記事の英訳を手掛ける岡野が務めました。
◾️顔料・岩絵具
PIGMENT TOKYOによる顔料のレクチャー
左:山里奈津実 /右:岡野敦美
画像提供:DCDD
顔料:インディゴ、天然ラピスラズリ末、天然 群青、天然松葉緑青、天然 黄茶、天然 赤茶、天然 辰砂、新岩 浅黄群青、新岩 山吹 、カドミウムイエローオレンジ
はじめに、絵具の原料である顔料と染料の違いや、各絵具に使用される展色剤(糊剤)、そして展色剤の特性によって変わる絵具の特徴についてレクチャーを行いました。
伝統的なThangkaでは、青系の顔料としてラピスラズリ(ウルトラマリン)やアズライト(群青)、マラカイト(緑青)、下地には白亜(炭酸カルシウム)のような天然の無機顔料や、黄土などの土絵具が使われてきました。
それに基づき、天然岩絵具の詳細に加え人工顔料がどのように生まれたのか、その背景についても解説しました。たとえば「新岩絵具」は天然岩絵具と同じ方法で加工されていますが、釉薬や金属酸化物を高温で焼成して作られた着色ガラスを用いています。
このように、顔料の製造プロセスを理解することで、別の視点から学ぶことができると考えています。
続いて、他には類をみない日本の岩絵具の最大の特徴である「番手」について説明をしました。
岩絵具の原料は粉砕され、10段階の粒度に分けて製造されます。この粒度により色調(明度)も変化し、粒子が微細になるほど色が明るくなります。
<デモンストレーション>岩絵具と膠を混ぜて練る方法
画像提供:DCDD
◾️膠の基礎知識と岩絵具の応用技術
絵具と顔料への理解が深まったところで、岩絵具には欠かせない重要な要素である膠です。
古くはブータンでも天然顔料に、膠を糊剤として混ぜて絵具を作る方法が一般的でした。しかし、現在ではアクリル絵具が主流となり、多くのアーティストや修復師が膠の特徴や使い方を理解していません。
そのため、膠の製造方法から日本で行われている土鍋を使った膠の炊き込み方法、その膠を用いた岩絵具の練り方から膠抜きにいたるまで講義と実演を通して解説しました。
PIGMENT TOKYOで販売している膠には物性値を表示しています。
その内容は粘度(Pa・s)、ゼリー強度(JS/g)、ペーハー(ph/水素イオン濃度)です。とくにゼリー強度の数値は重要で、用途に応じて膠を使い分けたり、希釈の調整が必要となります。
また、岩絵具の糊剤や基底材に使うドーサ液(にじみ止め)、和紙と絵絹ではそれぞれ最適な物性値や膠の濃度が異なるドーサ液が必要になります。
<デモンストレーション>膠の炊き込み
画像提供:DCDD
◾️絵絹の表現/張り込みとドーサ引き
ブータンでは基底材に絹は使用されていません。絵絹の木枠への張り方や、寒天と魚膠を使ったサイジング、また絵絹ならではの裏彩色技法についても実演を交えてレクチャーしました。
<デモンストレーション> 寒天液の作成方法
画像提供:DCDD
絵絹とは、絵を描くための絹布を指し、蚕の繭から紡がれた動物性の糸を使用し、主に精練されていない絹の生系で織られた生絹(きぎぬ)です。
基底材に絵絹を使うことで、色材や塗り方により絹の素材感や透明度を生かした表現が可能になります。絵絹は通常、平織りで平滑な表面が特徴です。 ドーサを引く前に目止めとして「寒天引き」を行うことがあります。
寒天引きとは、絹糸の目を寒天で埋めて平滑な表面にする技法です。
棒寒天を煮て濾した寒天液を熱いうちに刷毛で絵絹の表に1回塗り、乾燥後にドーサ液を引きます。
ドーサについてはこちらの記事をご参照ください。
<デモンストレーション> 絵絹のドーサ引き
一般的なドーサ溶液は、膠とミョウバン、水を混合して作ります。
膠は基底材に皮膜を作る役割があるので、ミョウバンはその皮膜を強化するために添加します。ミョウバンの濃度によってサイジング(ドーサ)の効き、つまり撥水効果を調整できます。しかし、サイジング効果を高めると、酸性のミョウバンが基底材の酸化を引き起こし、劣化や変色を促す側面もあります。
一方、ゼリー強度の高い膠はミョウバンを使わずに皮膜を固めて作ることができるので、膠単体でサイジングの効果が得られます。
作品の変質や保存性の観点から、PIGMENT TOKYOではドーサ用の膠に、魚膠や板膠 豚由来 (ドーサ向き)のようなゼリー強度が高いものを推奨しています。
<デモンストレーション> 岩絵具による絵絹への彩色
画像提供:DCDD
◾️墨/たらし込み
ブータンでは骨から作られる炭素系の黒い顔料(borne carbon)はありましたが墨は使われておらず、ワークショップの参加者の多くは、墨を硯で磨る様子を初めて目にしました。
日本画の技法のひとつである、「たらしこみ」については、DCDDの Lhendup氏のリクエストにより実演を行いました。
たらしこみとは、絵具を塗り、それが乾かないうちに 別の色を垂らし、にじみの効果を生み出す表現技法です。
<デモンストレーション> たらしこみ
画像提供:DCDD
Tango僧院のプロジェクトは10年以上にわたり続いていくと予想されています。
今回のワークショップを契機に、PIGMENT TOKYOは岩絵具や膠、墨を用いた技法や材料学を通じて文化交流の架け橋をさらに深め、これからもその繋がりを大切にしていきたいと考えています。
画像提供:DCDD
PIGMENT TOKYO
法人・団体のお客様 プライベートワークショップ情報
プライベートワークショップ基本情報(個人・法人・団体)
こちらの記事もご参照ください。
参考資料・関連サイトなど
ブータン
Department of Culture and Dzongkha Development (文化省・Dzongkha開発省)
ネパール
Sudarshan Suwal
Natural Collection Traders http://www.stonepigments.com/
Instagram https://www.instagram.com/sudarshan_suwal/